くらしのはな

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何食べたい?論議

何食べたい?

 

このフレーズを人生で1度も言ったことがない人は存在するんだろうか?

もし、いたとしても、同じフレーズを問いかけられたことはあるだろう。

 

ご飯を作ろうとしている人からその問いかけがあったなら、それを言葉道理に受け取ると”あなたが食べたいものを言ってください。なんでも作りますよ。”と解釈できるだろう。

付き合いたての大学生のカップルの小さなキッチンでの会話なら、この解釈はあっているだろう。

 

ある人はいう。ある人というか、Youtube大学のあっちゃんは言っていた。

あの質問の返事には正解がない。何を言っても文句を言われる。

つまり、毎日献立を考えている私にありがとうの1つもねえな。お前。という文句の言いかえなのだと。

よく奥さんにその言葉をかけられるらしい。

世の中の旦那さんの「なに食べたい?」の受け取り方はこんな感じなのかもしれない。

 

 

私は違う見解を持っている。

「何食べたい?」は助けを求める言葉だ。

アイディアが尽きているのだ。

毎日ご飯を作る人間はいろいろな制約の中で献立を考えている。

簡単に作れる

栄養バランス

家族の嫌いなものが入っていない

材料費が高くない

キチンが汚れない

作る工程が少なくてすむ

メインのおかずとの相性

食べ合わせ

最近作ったものとかぶらない

季節によっては作るとき熱いのは却下!!

など

いろいろなことに気を配りながら家族のために日々献立を考えているのだ。

正直考えることに辟易している。

その制約に合う献立のアイディアが足りていないのだ。

だから助けてほしい。

一緒に考えてほしい。

その気持ちが「何たべたい?」の一言に集約されている。

 

「何食べたい?」は常套句だ。

しかし、立場が違えば意味も受け取り方も違ってくる。

そしてそれは見落とされがちである。

 

使う側はとくになにも考えることなく、わかってもらえると思って当たり前にその言葉を使う。

コミュニケーションのギャップはこういう些細なところからも生まれるのだろう。

 

献立のアイディアに困っているときは

「何食べたい?」の後に

「ヘルシーで作るのが楽な献立を一緒に考えてほしい。もう思いつかないの!」

とでも付け加えるとスムーズに意図が伝わるのかもしれない。

 

そうしたら、

的外れな答えが返ってきて「この人、なにもわかってない!」と不快に思うことも

「なんでもいいよ」といわれて腹が立つことも減るのではないか。