くらしのはな

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速報!!自家製梅干完成!!!!?

 30歳半ばにしてはじめて梅干をつけてみた。

梅を買って、下ごしらえして、塩に漬け込んで、梅酢が上がってくるのを待って、

梅雨明けをまって、3日連続晴れる日を待って、干す。

(※梅干づくりの詳しい過程はまた後日、記録として詳しく書こうと思う。)

なんと気の長い話だろう。

6月初めに漬けた梅を、

なんなら、去年の秋ごろから構想し、待ち望んでいた自家製の梅ぼしを、

やっと食すことができる!!

 

わくわくしすぎて自然に目が覚めた。遠足前の小学生か!

5時55分

ゴーゴーゴー

ふっベランダに行けということか・・・。

そんなしょうもない事を考えながら待ちに待った収穫の儀式に臨んだ。

 

3日間ほど太陽の光にあてて、朝露にさらしたうめぼしはふっくら柔らかく、見た感じ上々の出来だ。

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早速出来立ての梅干を食べてみることにした。

収穫したての土付き野菜をその場で食べるがごとく。

ベランダで網に乗っている出来立ての梅干を指でつまんでそのまま口に運んだ。

嗚呼…なんという贅沢だ…

この贅沢は作った者しか味わえない…

なーんて浸りながら口に運んだ。

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口に入れた瞬間梅のさわやかな香りが口いっぱいに広がる

そして次に来るのは、・・・塩味っっっ!!!!!!!!!

えっ?しょppppppppppぱっ!!!!!

口の奥にほんのりえぐみすら感じる塩味が酸味を超えて来たゴーゴーゴー

半年ほど置くことで角がとれてくるとは聞いていたが

 

”角が取れる”の”角”とはこれのことか・・・

 

1年寝かせると尖っていた塩味と酸味が馴染んで美味しくなってきて

3年寝かせると塩が枯れて(塩味がまろやかになる)一番おいしい食べごろになるそう

 

言うても、出来立ては出来立ての良さがあるやろー

3年後まで残るかなー?きっとそれまでに食べきってしまうわー

とか思っていた。

 

ブログとかYoutubeで見る梅干女子たちが瓶いっぱいの梅干をホントにいくつも蓄えている様子を見て

 

え、全然食べてないやん。食べへんのになんでまた作んねやろー?とか思っていたが

 

そういうことか。

 

腹落ちするとはまさにこの事。

 

きっと私も来年、瓶いっぱいに去年の梅を残しつつ3年後の自分の為にまたせっせと梅を漬けるのだろう。

 

来年も。再来年も。

 

スペースあるかな…

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何食べたい?論議

何食べたい?

 

このフレーズを人生で1度も言ったことがない人は存在するんだろうか?

もし、いたとしても、同じフレーズを問いかけられたことはあるだろう。

 

ご飯を作ろうとしている人からその問いかけがあったなら、それを言葉道理に受け取ると”あなたが食べたいものを言ってください。なんでも作りますよ。”と解釈できるだろう。

付き合いたての大学生のカップルの小さなキッチンでの会話なら、この解釈はあっているだろう。

 

ある人はいう。ある人というか、Youtube大学のあっちゃんは言っていた。

あの質問の返事には正解がない。何を言っても文句を言われる。

つまり、毎日献立を考えている私にありがとうの1つもねえな。お前。という文句の言いかえなのだと。

よく奥さんにその言葉をかけられるらしい。

世の中の旦那さんの「なに食べたい?」の受け取り方はこんな感じなのかもしれない。

 

 

私は違う見解を持っている。

「何食べたい?」は助けを求める言葉だ。

アイディアが尽きているのだ。

毎日ご飯を作る人間はいろいろな制約の中で献立を考えている。

簡単に作れる

栄養バランス

家族の嫌いなものが入っていない

材料費が高くない

キチンが汚れない

作る工程が少なくてすむ

メインのおかずとの相性

食べ合わせ

最近作ったものとかぶらない

季節によっては作るとき熱いのは却下!!

など

いろいろなことに気を配りながら家族のために日々献立を考えているのだ。

正直考えることに辟易している。

その制約に合う献立のアイディアが足りていないのだ。

だから助けてほしい。

一緒に考えてほしい。

その気持ちが「何たべたい?」の一言に集約されている。

 

「何食べたい?」は常套句だ。

しかし、立場が違えば意味も受け取り方も違ってくる。

そしてそれは見落とされがちである。

 

使う側はとくになにも考えることなく、わかってもらえると思って当たり前にその言葉を使う。

コミュニケーションのギャップはこういう些細なところからも生まれるのだろう。

 

献立のアイディアに困っているときは

「何食べたい?」の後に

「ヘルシーで作るのが楽な献立を一緒に考えてほしい。もう思いつかないの!」

とでも付け加えるとスムーズに意図が伝わるのかもしれない。

 

そうしたら、

的外れな答えが返ってきて「この人、なにもわかってない!」と不快に思うことも

「なんでもいいよ」といわれて腹が立つことも減るのではないか。

 

 

木村嘉子展に行ってきた

先日、以前から気になっていた、さかい利晶の杜で開催されている企画展「木村嘉子展-色彩表現の探求~生きることは変化すること~」を見に行ってきた。

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色フェチの私は副題の「色彩表現の探求」という言葉に単純に惹かれて訪れたのだが、思いがけず多くのものを持ち帰ってくることになった。

この企画展は木村嘉子の絵画展であると同時に、「抽象画とは何たるか」の企画展だったのだ。

 

木村嘉子は抽象画家である。

絵画展には、初心者向けに抽象画とは?の説明書きが添えられていた。

「生きることは変化すること」彼女の言葉道理、彼女の作品は年代により大きく作風が変化している。それは彼女が常に「現代的」であることを追い求め、新しい画法にチャレンジしていたためであるが、それにより、彼女の軌跡をたどる絵画展は、まるで抽象画の表現技法の歴史をたどっているかのようだった。

今回の絵画展で私が一番気に入ったのは「丸の作品」という絵画である。キャンバスの油彩。直径はかるく1メートルは超えていたと思う。この作品は絵画展のメインに据えられているのであろう。チラシやポスターのモチーフとしても使われているが、生で見ると迫力が違う。私はいままで抽象画を好んでいなかった。私には理解できない。ハードルの高いもののように思えていた。しかし、この絵画を見る事で抽象画の楽しみ方が少しわかった気がする。まず初めに単純に絵画として美しかった。そして色彩表現の美しさに惚れ込んだ。次に絵に残された筆跡などからどの様にしてこの作品が描かれたのかを推測して楽しんだ。また、作者がこの絵で表現しているものはなんであるかを考えた。その空想は沼のようにどこまでも深く油断すると時間は飛ぶように過ぎていく。見る角度によっても立ち位置によっても見え方が変わって面白い。その日は平日で閑散としていたおかげで30分近くはその絵の前でじっと眺めていたと思う。「ご迷惑になるといけないのでそろそろ行こう」と何度も思ったのだが、離れがたかった。もしこの絵が家にあればコーヒーを片手に1日中でも座り込んで眺めていられると思ったほどだ。

 

抽象画とは見る側に自由をあたえる絵画である。その解釈の仕方も、楽しみ方も、楽しむかどうかさえも自由なのだ。そう考えると、抽象画へのハードルも少しは下がるのではないか。私のような入門者にもそれが感得できる企画展だった。